機会の平等と能力の不平等
最近は、よく日本でも格差社会だと言われたりしていますが、
私は、人間の能力には大きな個人差があり、各人が適正に評価されれば、
帰結として『格差が開くのは当然』だと思います。
そもそも資本主義社会における平等というのは機会であり、スタートラインを同じレベルにすることです。
つまり『機会の平等』と『能力の不平等』が生じます。
能力の不平等:能力やスキルによって成果や結果が与えられる不平等
例えば、学校で誰もが同じ授業を受けることができるというのは『機会の平等』です。
しかし、その授業を聞いて生徒のテストの点数が異なるのは『能力の不平等』です。
アフリカなどの貧しい国々の勉強したくても、勉強ができない子どもたちは『機会の平等』が失われていますが、
今の日本で考えれば『機会の平等』はある程度保たれていると思います。
教育そのものの機会が平等になればなるほど、個人の能力の格差が拡大して能力の不平等になるのは当たり前です。
日本は能力の不平等を無くした社会
日本は能力の不平等を無くした社会だと思っています。
能力の不平等を無くした社会は『頑張った人が過小評価』され、『頑張らない人が過大評価』される社会です。
頑張らない人→過大評価
つまり、能力の不平等を無くした社会は『努力が報われない』ということです。
すると頑張るモチベーションが下がり、社会全体の空気が頑張っても意味がないと感じるわけです。
能力の不平等を無くした社会というのは『社会主義的』になるのです。
日本人はみんな同じが良いという文化や国民性があるためこうした社会構造になりやすいです。
しかし、国民一人ひとりが平等な社会というのは『機会の平等』であり、
個々の能力や評価を均等にしようとすることではないんですね。
私よりも足が速い人もいれば、私よりも絵が上手い人も当然います。人間には能力やスキルに差があるからです。
しかし、頑張るモチベーションが下がると、
足が速い人が足をわざわざ遅く調節したり、絵が上手い人が下手に書いたりと
能力の不平等を無くした社会は閉鎖的な空気になってしまいます。
日本の一億総中流時代は終わり今後2つの選択肢を選ぶことになる
今までの日本は、一億総中流と呼ばれる『豊かで平等な国』でした。
高所得者が低所得者をある程度支えることができ、豊かで平等な国になっていました。
しかし、現代日本は高所得者が支えるのが当たり前の雰囲気に変わり、
『弱肉強食』ではなく『強肉弱食』になっているんですね。
当然、低所得者が増えると高所得者が支えられなくなり、一億総中流は時代の流れによって終わりを告げました。
今後、一億総中流が終わった日本が選ぶ選択肢は以下の2つです。
・貧しいが平等な社会
豊かになれるが不平等な社会は『能力によって格差が生じますが頑張り次第で豊かになれる社会』です。
貧しい子が平等な社会は『能力の無い人が能力のある人に寄生して全体が貧しくなる社会』です。
日本は『貧しいが平等な社会』に進んでいます。
結果や成果を出せるかは自分次第
おそらく世界は人種、性別、年齢などの不平等な差別はなくなり、逆に能力による不平等な差別が拡大します。
ちなみに地球規模では、貧富の格差はむしろ縮小しています。
グローバル市場では格差が縮小されて、発展途上国の人々の平均的な生活水準が向上しているのと同時に
先進国に生まれただけで能力と無関係に豊かだった人たちが、
発展途上国の低スキル層と同じ所得に近づくのは極めて当然な話なんですね。
日本だけで言えば、貧しいが平等な社会を作り出して能力の不平等を無くした社会主義のような国になり、
他国に比べて能力に対する評価が下がるので、どんどん貧しくなっているだけの話だということです。
ただし、日本は機会の平等が与えられて努力できる環境があり、
そこで努力をせずに結果や成果が出ないことに不満を言うのはおかしいと思っています。
結果や成果を出すのはその人次第だと思っています。不満を言っているだけでは何も人生は変わりません。
だからこそ、今の時代はにチャレンジ精神を持ってどんどん挑戦する人のほうが結果や成果が出せる時代だと思います。
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