こんにちはmasayaです。
ついに99代目の新しい内閣総理大臣が菅義偉に決まりましたね。
そこで、票後の挨拶で『私の目指す社会像というのは、自助・共助・公助、そして絆であります。』
と発言されていました。個人的には納得なのですが、公助が大切だという意見の人たちに非難轟々でした。
今回は、公助は自助がなければ成立しないという話についてです。
菅さんの自助・共助・公助という発言
票後、菅義偉新総裁の挨拶で、
「私の目指す社会像というのは、自助・共助・公助、そして絆であります。
まずは自分でできることは自分でやってみる。そして地域や家族でお互いに助け合う。
その上に立って政府がセイフティネットでお守りをする」
という発言をしました。自助・共助・公助はそれぞれどういった意味なのかと言うと
共助:コミュニティや社会で助け合う
公助:公的機関が自助や共助で解決できない問題にあたる
個人的には普通の当たり前のことを言っているようにしか思えないのですが、
中には極端な自己責任であり、弱者の切り捨てた発言だとSNSでは非難轟々なんですね。
公助が大切だという人は『自身もその公の一員』なんですよね。
しかし、公助が大切だという人の多くは、『自らも公助のために頑張ろう!!』という
当事者意識を持っている人をあまり見たことがないです。
公助が大切だという人は、他人のお金で生活が成り立つと思っているただのTAKER思考なんですよね。
自助ができる人が税金を払うことで、政府は公助を実現できるわけなので、
自助をする人がいなくなれば、当然公助も途絶えるわけです。
そこで今回は、自助・共助・公助を私なりの見解を紹介したいと思います。
日本社会では公助はすでに行き届いている
公助はすでに日本社会では行き届いているんですよね。
実際に税金で払った分よりも私達は社会的なサービスを受けています。
他にも社会保障はすでに100兆円も使われていますからね。
すでに私たちは多く税金を納めてくれている企業や個人に公助という形で、助けられているという事実があります。
実際に額面年収と手取り年収の推移見たらわかるとおり、年収が大きくなればそれだけ、
負担が手取りの差も開いており、これこそ自助した人が公助のお金を補っていらうからですよね。
自助がなく、共助・公助しかない社会というのは『自分ができることは頑張ること』がない社会である、
つまり『努力する人は努力しない人を100%背負わなければならない社会』なので地獄でしかないですよね。
誰も努力なんてしなくなりますから。
公助が大切だと考える人は助けてくれないが、自助が大切だと考える人同士は助け合いが成立する
公助が大切だと唱える人は実は他人を助けたりしなんですよね。
格差社会で助けられる人が一方的に助けられて、その人は誰かを助けるだけの力は全く無いんですよ。
さらにたちが悪いのは、公助言ってる人ほど『自助で頑張った人を叩いたり足を引っ張る』ですね。
なので、自助で頑張っている人は公助と叫ぶ人たちを助けようとは思わなくなるのは当然だと思います。
逆に、自助が大切だと考える人同士は、自助で自分のことは自分でできる人たちなので、助け合いが生まれます。
自分が助けられても次に相手が助けを求めても助けられるから成立するのです。
自助は当然であり公助を叫んでいる人たちは自助する努力をしたくないだけ
そもそも自分の人生を生きるというのは、自分で頑張り自助する必要があります。
その中で、公助があったり、共助も存在するだけです。『自助(公助+共助)』という形です。
自助>公助というのが成り立っているからこそ私たちはサービスなどを受けられるのであって、
これが、自助<公助になれば、公助!!公助!!と言っている連中は、単純に『自助する努力をしたくないだけ』なんですね。
つまり、全く大人として自立しておらず、ただたかっているだけなのです。
個々で人が努力することは当たり前であり、その中で助け合いが生まれるのです。
それほど、公助と叫ぶのであればもっと多くの税金を自ら納められるように努力してほしいと思います。
私も公助は大切だと思っているので、自分で自助してより多くの人を支えられるように頑張っていきたいです。
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